取り組みその1
その日感じたことを言葉にしてみよう。という
取り組みその1。
本について。
私、自分は本が好きだと思っている。
目的はない。
研究でもない、発表の場を求めているものでもない。
共有や共感できたら嬉しいけど、身近な人と共通の話題にできるジャンルがあまりない。
最近、本に限らずはまっている一つのジャンル。宗教。
宗教といっても、一つの宗教を極めるのではなくて、
どちらかというと、普遍性や、人々の窮地で最後の支えとなってきたであろう、
心の拠り所としての、宗教や信仰のありかたに、興味がある。
なので、基本的には何教でも良い。
今の読書位置は、ベトナム出身の僧、ティクナットハンの『イエスとブッダ』。
ここにたどり着く前は、仏教に関するエッセイや文庫を数冊。
それから、夜と霧の作者、ヴィクトール・E・フランクルの『それでも人生にイエスと言う』。このあたりで、かなり信仰という目に見えないものがもたらす、
人々の希望や、心身への具体的な影響について、思いを巡らせるきっかけになった。
死ぬその直前まで、人は誰もが、どう生きるかという姿勢を選ぶことができるし、
誰もが、どんな人からも生きる希望を奪うことはできない。
つまり、すべてに対する態度を決めるのは自分自身であって、
その決定要因や決定権は自分にあり、
楽しく生きると決心することもできるし、
幸せだと捉えることもできる。
その逆も然り。
最近この練習ばかりしている。
幸せになりたいと思う、願うのではなくて、
実はわりと、普段から、幸せだなぁと感じるタイプなのだが、
ときに訪れる、悲観的にならずに済む方法(誰しもそうだろうか)を
探し続けている。
今、この瞬間しか生きてはいないし、
この瞬間と、さっきまでの瞬間と、今のこの次の瞬間、
その連続が1日であり、人生であると、感じている。
もしそうならば、刹那的に考えてしまいそうになるのだが、
人生は組み立てていかなければいけないし、
嫌でもこんがらがって重なり合って積み重なっているものなので、
今この瞬間に最善を尽くすこと、そこに集中するほかない。
自分の要求や、どうありたいのか、どうあるべきなのか、という理想に従って
伴侶と対話しているうちに、やはり
文章を書くべきだと落ち着いた。
まったくまとまりのない、自分本位なトピックや筆運びをお許し頂きたいのです。
お付き合い、ありがとうございます。
心の雨
こんばんは。
雨の夜ですね。
独り言みたいな、誰かへの手紙みたいな、まとまらない綿あめみたいな、
ふわっとした気持ちですが、
まずは宛のない手紙と思って、書きはじめてみます。
心に雨が降ること、ありますか?
人生を歩いていると、私の心に、時折、雨がふります。
どこまでも続く霧雨のような、息苦しくむせるようなとき。
激しく降って、ドカンと雷も落ちて、雷鳴轟くような嵐。
絶え間なくしとしとと降る、寒い、じめじめとした長雨とレインシューズにこもる湿気。
降りそうで降り出さない、どこまでも冷たく暗い曇り空。
まるで祝福のシャワーかキャンディのような、まぶしいお天気雨。
雨上がりのゆったりとした虹。
心に降る雨って、誰にも必ず訪れるし、いつ止むとも知れぬ、とても不安なものだったりします。
でも、晴れ間はきっと来て、そのときって清々しい気持ちだったりする。
雨降る前の、嫌なモヤモヤもわだかまりも、きれいさっぱり洗い流されていたり、
輪郭がぼやけて見えなかったあの目標や看板も、雨に濡れて色彩鮮やかに、はっきり見えてきたりする。
猿のような顔で泣きながら生まれて、泣きながら生きてる。
ずっと歩き続けてる。大げさだけど。
どれも全部、一人じゃ起こらなかったことで、
全部、誰かが居たから、または居てくれたから、起きたことばかり。
これらは比喩です。
私の心には、きょう、雨が降っていました。
おしまい。